受験生よ…。

近くの神社に神頼みに行くのはよく分かる朕だ。

○学業成就、合格を祈願 山寺の法要に受験生や家族ら
2007年12月16日(日) 20:03
山形市山寺の立石寺根本中堂に勉学修業の本尊として祭られている「文殊菩薩(ぼさつ)」の御利益を受けようという「学業成就祈願法要」が16日、同所で行われた。県内各地から受験生や家族らが訪れ、学業成就と合格を祈願した。…学業成就の祈願法要は長らく途絶えていたが、要望が多く2005年12月に37年ぶりに復活。その後、立石寺と山寺観光協会が毎年実施している。
…以下略*1

どこにでも学業成就の神様はいるもので、例えば九州の大宰府、京都の北野天満宮、東京の湯島天神が有名である。山形では鮭川村の庭月観音や高畠町の亀岡八幡が有名であろうか。もっとも、朕は直接頼みに行ったことはないので、もっとお願いを聞いてくれるところはあるだろう。ちなみに、宮城では仙台の榴岡天満宮が有名(というか、朕はそれしか知らない。)であろうか。
人間には限界がある。その限界点は、努力次第でいくらでも高い水準に持っていくことは可能である。ただ、その努力にも限界があるということも事実であり、結局、人間の限界は努力できる限界というところに行きつくといえよう。そこまで達することになったとき、人間はそれ単体の力で物事を解決することはできなくなってしまう。そこで、道具を使って人間の能力を増強したり、教材学習や塾、予備校に通って、自分ひとりでは思いもつかなかったことに気付こうとする。或いは、複数人で一緒に勉強をすることで効果を得る者もいると聞く。いずれにしても、人間一人で解決することの限界を示しておろう。
朕は神頼みをしたことがない。いや、一回か二回くらい、何かをお願いしたことはあったかもしれない。いずれにしても、お願いしたことがその通りになったことはない。まぁ、普段はとりたてて信じているわけでもないし、毎日お参りに行ってるわけでもない。お参りに行ったとしても、ろくに賽銭も入れないのだから、神のご利益にあやかることはできまい。
神頼みをすることでとりあえず自分の心を満足させようというのならば、朕は近所の神社に行くことをオススメする。あるいは、京都や九州に行く人にお守りを買ってきてもらうのもいいだろう。どちらにしても、わざわざ遠いところに足を伸ばすくらいなら、その時間で勉強した方がいいと思う。
引用してきた記事の中学生は地元の中学生が大半であるようなので、まぁいいか…という気がしないでもない。気分転換という意味でも良かったのだろうか。ただ、遠方からわざわざ…っていうのは感心しない。多分、神仏も「いいから勉強しろ。」と言うのではないだろうか。